2018/05/05
津和野伝統的建物群保存地区は、旧城下町の北側にあり「後田」と呼ばれ、中世や室町時代は津和野城の搦手に位置し、水田として開発が行われたと考えられています。
中世末期に、津和野城主吉見氏によって城下町として整備されて以来、江戸期を通じて城下町における武家地、町人地として栄えました。
今回はこの津和野伝統的建物群保存地区と、それぞれの通りの特徴についてご紹介します!(history of tuwano in shimane japan)
目次
津和野伝統的建物群保存地区の歴史
大正11年(1922年)に国鉄(現在のJR西日本)の山口線が開通して、人や物資の移動が大幅に拡大されることになりました。
さらに昭和に入ると交通量が増加していき、本町通りから殿町通りへ通じる唯一の主道だけでは渋滞が発生するために、通りの西側に津和野駅から津和野大橋へ通じる、産業道路(現在の高岡通り)が整備されました。
第二次世界大戦後は過疎化の進行で人口が減少しましたが、大規模な町の開発は行われず、無秩序な建築物の乱立といった状況とは、無縁のまま今日に至っています。
通りや水路などは整備当時の原型を今に留めていて、それに沿って立ち並ぶ建物は、武家地や町人地の雰囲気を今に伝えています。
殿町通り
保存地区の南端に位置する殿町通りは、江戸初期に坂崎氏が館を構えたところで、江戸時代を通じて筆頭家老館の武道場などが残っていて、後に整備された土塀や門と合わせて、当時の雰囲気を今に伝えています。
さらに昭和に入って、カトリック教会が殿町通りの北端の東側に建設されました。
これは明治になって商人であった堀九郎兵衛の館跡に、キリシタン弾圧によって殉教者を弔うために建てられたもので、津和野の歴史を語るうえで貴重な建築物です。
本町通り~祇園丁通り
殿町通りから続く本町通りや祇園丁通りは、旧山陰道沿いの町人地として発展し、嘉永の大火後の商家や明治以降の酒屋などが立ち並び、往時の面影をとどめています。
さらにその先に伸びる鉄砲丁通りは城下の北端にあって、城下への入り口としての機能がありました。
地区内を縦横に流れる水路は、中世末の城下町の形成とともに整備され、今日までその原形を留めており、城下町の歴史的構成要素として貴重です。
江戸期から庭で鯉を飼う習慣があり、明治時代に殿町通りの東側に水路を整備し鯉を放流しました。
新丁通り・万町通り
本町通りの西側に並行して走る新丁通りも、江戸時代からその道幅を変えずに至っています。通りの南端の上新丁には土塀が残り、江戸時代の武家地の面影を残しています。
中新丁から北側は明治以降館や飲食店が立ち並び、現在もその面影を残す建物が多く存在しています。
本町通りの東側に平行して南北に走る万町通りは、江戸期からその道幅を変えずに現在に至っています。江戸時代には通りの南端の一角に町奉行所があり、その周辺に武士が着きました。
明治以降は民間に払い下げられ、昭和に入ってからは共存病院が建設されました。
伝統的建造物と環境物件
殿町通りには家老多胡家に見られる、江戸時代の武家屋敷や藩校養老館の学校建築、本町通りから祇園町にかけては江戸~明治の商家建築が残されています。
また万町通りや新丁通りには、明治~昭和初期にかけての町家建築が多数を占め、戦前の様子を比較的良く残しています。
水路は中世末期から江戸初期にかけて、町が整備された際に設けられたもので、現在は西周旧居付近に設けられた、津和野川の取水口から水を取り込み、地区内に引き込んでいます。
その経路は大きく変わることはなく、部分的に蓋を施しているところもありますが、全体的には開渠となって流水を見ることができます。
おわりに
ちなみに津和野伝統的建物群保存地区とは、全国の市町村で定められた津和野伝統的建物群保存地区のうち、国にとってその価値が特に高いものとして、「国の選定」を受けたものになります。
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