2018/05/05
ロシアのユジノサハリンスクとは、北海道の北にある日本最北端の宗谷岬からわずか50kmに位置していて、かつては樺太と呼ばれた島のサハリンのことです。今回は、そのユジノサハリンスクについてご紹介します!(Sakhalin in Russia)
目次
ユジノサハリンスクの歴史
樺太千島交換条約により樺太をロシアに譲る
ユジノサハリンスクはもともと、アイヌ民族などの北方民族の居住地でした。この島は日本が鎖国を続けていた江戸時代には、北蝦夷とも呼ばれていて、蝦夷地(北海道)の松前藩の領地とされていました。
その後ロシアの南下が激しくなると、江戸幕府はこの島を直陣地としました。間宮林蔵の探索によって、間宮海峡を隔てた島であることが判明したのもこの頃になります。
勢力の南下を図るロシア帝国は使節プチャーチンを長崎に遣わして、日本の開国と北方の国境画定を迫りました。
その結果結ばれた安政元年(1855年)の日露和親条約で、南千島の国境が画定し、択捉・国後・歯舞・色丹の四島が日本領と確認されましたが、樺太は日露両国民雑居の地で、領土未確定の島とされました。
しかし明治維新後の新政府は樺太の保有をあきらめ、代わりにカムチャッカ半島より南の全千島諸島の領有権確保と交換に、樺太をロシアに譲る樺太千島交換条約を1875年に締結しました。ロシアはこの島を囚人の流刑所として、石炭の採掘などを行っていました。
日露戦争後日本領となった南樺太
1905年の日露戦争の結果、北緯50度線以南の南樺太が日本に割醸され日本領となりました。日本政府は北海道・東北・北陸などへ日本人の移住を進め、鉄道の敷設・林業・炭鉱開発などの産業の大規模な開発を行いました。
また第二次世界大戦期には日本人労働力の減少を補うために、日本の植民地だった朝鮮半島の人々を労働力に充てました。こうして樺太に移住した朝鮮人は、4万人にも及んだといわれています。
ソ連に事実上併合された南樺太と千島
やがて1945年8月9日、ソ連は日ソ不可侵条約を破棄して突如、北緯50度の国境線を突破して日本領樺太に侵入を開始しました。ソ連軍の侵攻は8月15日の終戦後も続き、南樺太と千島はソ連軍が占領し事実上併合されて、ソ連の継承国家たるロシア連邦が実効支配しています。
しかし日本政府は戦後の今も一貫して、日露和親条約で日本領と確定していた、北方四島の返還を要求し続けています。
現在はロシアのサハリン州の主要部分を構成して、ユジノサハリンスクが州都になります。北樺太には豊富な油田と天然ガスが確認されていて、近年アメリカや日本の資本が大規模な石油開発事業を展開しています。
人口は約50万人が、生活をしています。そしてその過半数が南部の都市やその周辺に集中して開発が進みつつありますが、一歩町を出ると、手つかずの自然そのものと言ってもよいほどの環境が残されています。
ユジノサハリンスクへのアクセス
空便
国際線は札幌(新千歳)から週に2便が運航していて、その所要時間は約1時間20分です。国内線としてはハバロフスク、ウラジオストック、サンクトペテルブルク、エカテリンブルグとモスクワなどと結ばれています。
船便
国際航路について稚内~コルサコフ間は、冬季以外は定期的に運行されています。所要時間は約5時間30分です。ハートランドフェリーで運行されています。
ユジノサハリンスクの写真集
おわりに
空港からユジノサハリンスク駅へは、8・63番マルシルートカとバスが便利です。所要時間は約25分、料金は15Pで利用出来て、乗車後に運転手に支払います。
8番は駅が終点で、63番はレーニン像が見えたら、すぐの停留所の中央郵便局グラヴパチタムトで下車します。「ヴァグザール(駅)」と伝えておけば、着いた時に知らせてくれます。日本でトランスファーを頼むと、15,000円くらいにまります。
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